第六次 将門塚改修工事  設計思想と細部説明

2021.07.02

0 2018年〜2021年

>最初に旧将門塚についてご相談があったのは2018年の春でした。将門公の歴史と様々な逸話を聞き、近世における恐ろしいイメージを払拭し、江戸時代のように庶民に愛される将門公のイメージを復興するとともに、敷地内の安全性と管理性を向上させ、新しい時代に相応しい将門塚にしたいというお話でした。

 それから1ヶ月、最初の提案が共通の目標となり、多くの関係者と共に改修計画に着手しました。調整作業に2年、着工の年がオリンピックからコロナ禍とへと大きく様変わりしましたが、関係者の目標を成し遂げたい意志は全く揺るがず、さらに実施設計に6ヶ月、工事に6ヶ月、そして4度目の2021年の春に無事竣工を迎えることができました。

1 旧将門塚に感じたこと

  • ・日本人の死生観に呼応するプラン
  • ・周辺環境を再構築する塀
  • ・首塚と胴塚の交わり

>最初に訪れた際に、こういった参拝空間にあるはずの秩序や形式がなく雑然としていると感じたため、日本人の死生観に呼応するわかりやすい形式を持ち込みたいと考えました。将門塚には神道と仏教の両方が深く関わっていますので、その関わりの歴史を私なりに解釈し、よい混在のさせ方を模索したいと思ったのです。また、将門公はこの場に閉じ込められているように感じたので、新しい時代には周辺環境と積極的な関係を結ぶ場にしたいとも考えました。最後に、ここは首塚で、将門公の故郷・茨城県には胴塚があります。塚といえば土が主ですので、東京と茨城で土の交換をし、身体と想いを一つにするような、土を大事にする改修計画にすることを決めました。

2 旧将門塚の整理

  • ・撤去したもの
    各種残置物と全ての樹木を撤去
  • ・引き継いだもの
    春日灯籠、境界杭跡、千鳥岩、板石塔婆、石灯籠、古蹟保存碑、旧跡名石碑

>旧将門塚では、樹木が大きくなりすぎて剪定もままならず、強風時には落枝が頻発し、度々鳥が営巣する、、などの問題がありました。さらに地面の不陸が激しいので水はけが悪く、周囲から目通しが効かないので放置されたお供物が腐敗する、ゴミを放置する、タバコを吸う、寝ているなどの行為があとをたちませんでした。管理については、保存会だけでは目が届かず、数多くの崇敬者の皆さまに甘えていた状態です。

 今回の改修工事は第六次目ですが、これまでは比較的ネガティブで外的要因のために対応を迫られる工事が多かったと思います。しかし今回は初めての関係者が一丸となり、これから先の社会の中で将門塚が本来の輝きを取り戻すことを狙ったポジティブな試みです。塚の象徴である土壌に根が張り巡っていましたので、一旦全て撤去することにしました。当初はクロガネモチを残すことを前提に検討をしましたが、幹が大きく曲がっており工事に耐えられないとの判断でシンボルとなる役割を2代目に引き継いでいます。また数多くの既設物については、歴史的価値を判断し実施調査を重ねた上に残すものを決めて、新しい将門塚でも変わらぬ役目を担ってもらっています。

3 与条件を整理して新しい場をつくる

  • ・スロープより南側を社会との緩衝地帯
  • ・超高層ビルの印象を消す高さ2mの塀
  • ・皇居の緑を借景に
  • ・ひらかれた将門塚へ

>第六次改修計画は独立した計画なものの、周辺の地区計画とも連関しており、当初から多くの方が参拝できるようにスロープが計画されていました。このスロープから南側の歩道までを現代社会から敷地中央の参拝空間への緩衝地帯にしました。敷地は隣接した北側と東側、道路を挟んだ南側にも超高層ビルがそびえている極めて都市的な立地です。参拝者が新しくなった将門塚を訪れた際は、その高さが気にならないように意匠的に密度の高い塀を周囲に巡らせ、意識をそちらに向けるようにしました。この敷地境界を明示する塀や敷地内の工作物には高さ2m以内にすべき制約があったので、限られた高さの中で隣接する環境や条件を読み解き、メリハリをつける必要がありました。ありがたいことに敷地西側には隣地の庭園を通して皇居の緑が望めそうでしたので、借景とし視界を最大限開放することにしました。将門公は桓武天皇の血を引いておられますので歴史的な文脈にも繋がることになります。

 工事着工前に、神職さまから神様には恵みと恐れの両面があるというお話を聞きました。私にはこの言葉がとても腑に落ちたのを憶えています。近年は将門公の陰の面に注目が集まり過ぎており、本来の弱きを助け強きを挫く、多くの庶民に愛さていた陽の面に光を当てるような場にすることを目指していたからです。

4 参詣順序に沿った各所説明

  • ・交差点より皇居へ続く緑の壁
  • ・山門に見立てた石壁
  • ・こころを整える場
  • ・太鼓橋をわたる
  • ・砕石の海
  • ・原点・千鳥岩
  • ・中心・参拝場と墓前揃え
  • ・校倉造り風の木塀
    透けている木塀、段階的に変わる高さ、金属笠木、鏡仕上げステンレス棒、
    餝硝子、敷地境界線、サイクロイドとカテナリー曲線、木塀の保守と改修
  • ・敷地内外の植栽と2代目クロガネモチ

>参拝時は多くの方が大手町方面から来られると思いますが、交差点から皇居に向けて緑の壁が続いていくさまが目にできるはずです。その始まりに、中央に階段がある斜めに立ち上がる石壁を見つけることができます、それが新しい将門塚の正面入口です。将門塚は新しくなっても変わらず同じ場所に存在しています。

 この一対の石壁は、神社仏閣で言えば山門であり、この先が神聖で特別な場所であることを暗示しています。ここでは城壁の石垣のように力強い形状を与えその役割を担わせていますが、当初の計画では、この石壁の上に左右一対で、立体的な筑波山の石飾りを据えることを予定していました。将門公の首が京都から茨城に戻ろうとした際に、目印としたのはきっと見慣れた故郷の山だったはずで、阿吽を唱える金剛力士像や狛犬のように、南からと北から望む筑波山を左右に据えることで、始まりから終わりまでを暗示する現代的な礼拝場所の入口を提案できると思ったからです。残念ながらこの石飾りは無くなりましたが、出来上がってみると装飾がない分、逆にモダンな大手町にあっているようにも思います。

 7つの踏石からなる石段は、正面から見ると逆台形の形をしています。これは一般的な階段のように等幅にすると上りも下りも同じ体験になってしまいますが、逆台形にすることで上りでは将門公の魅力に惹かれ上がることになり、参拝が終わったあとの下りは将門公の御加護に背中を押されて現世へと戻っていく、まるで物理的な力が働くように心の中に上りと下りで異なる勢いが生まれる、そんな体験になることを願った形状だからです。上がるときには、石段の入隅部分にも目を留めてみてください。踏面から蹴上面までが連続した曲線で途切れぬようになっており、一歩踏み出したご縁が石段、石畳、太鼓橋と途切れることなく参拝空間まで続くようにしています。

 石段を上がった太鼓橋をわたるまでの石畳は、将門塚の敷地内ですが参拝空間ではなく現世の延長としてとらえています。西側には隣地からバリアフリーの観点から整備されたスロープが接続し、東側には植栽帯の周りに清掃のための水道と電源、そして看板を配置しています。看板には歴史的説明、参拝者へのお願いと視覚障害者対応、旧跡に指定された経緯説明の3点があります。ここは現世の延長ですが、将門塚に対する知識を得て、参拝空間へと最後に心を整える場でもあります。

 太鼓橋は人1人や車椅子が安心して渡れる幅ですが、橋の上ではすれ違うことができない広さにしており、その幅を竣工時の2021年が将門公1082回忌にあたるので1082mmとしています。また太鼓橋の始まりは石畳に入り込んでおり、その終わりは少しの隙間を残し、参拝空間に届いていません。特別な場所へとわたる橋は、私たちの生きている現世に深く関わっていますが、特別な場所にはほんの少し届いておらず、その隙間を意識し、今一度気持ちを整えて最後のひと踏みをして欲しいとの願いからです。この入り込み幅は将門公の命日から214mm、隙間は将門公が生きておられた最後の年齢になぞらえ37mmとしています。

 太鼓橋の両側、参拝空間の周囲に敷き詰められているのは、階段や石畳と同じ石材からつくられた砕石で、これを海に見立てています。日本ではどんな山や谷でも自力で越えることができますが、それ以上先にいけないのは海です。現世から太鼓橋をわたる、その先は物理的にも精神的にも特別な場所であることの表れです。砕石は深さ300mmほど敷き詰められており、その下は地面です。新しい将門塚は敷地周囲をコンクリートと石で囲まれ堅牢になりましたが、砕石の下だけは、雨水が染み入り、空気が通るように、将門塚が呼吸できるようにしています。

 将門塚の正面入口に立つと、石段から太鼓橋を結んだ先に砕石の海に浮かぶ岩が見えます。これは将門塚で最も古くから存在している千鳥岩です。石段を上がる一歩目は必ず下を向くことになるので、おのずと最も古い存在に敬意を払うことになります。新しい将門塚では、この千鳥岩を敷地のどこに再配置するかが重要でした。入り口からまっすぐに進み参拝所へと至る、参拝経路でもある南北の縦軸を成す原点にしています。また千鳥岩の下には、土の交換の証として、茨城県にある将門公終焉の地・國王神社と胴体が埋葬されている胴塚・延命院の土と岩が鎮め物として納められています。土の交換は形には現れないことですが、何よりも実現したかったことの一つですので、実現できたときには心から安堵しました。

 太鼓橋から最後に一歩踏み入れると、そこは参拝空間です。周囲の砕石の海よりも石段ひとつ分高くしてあります。東西に長い石畳の東側には、板石塔婆と古い灯籠が安置されています。私個人は、塚は土であり地盤全体が礼拝の対象だと思っていますが、その礼拝の窓口としての板石塔婆や灯籠からなる墓前揃えは、千鳥岩と同じく重要な存在です。新しい将門塚は大きく変わりましたが、参拝者が手を合わせ将門公へ祈りを捧げる墓前揃えの周辺は以前と変わらず馴染み深いものであるよう、高級石材の本小松石を用いて寸法などそのままに再現しています。敷地全体の石材は、当初予定していた茨城県産から中国産に変わりましたが、墓前揃えの後ろ(東端)は唯一茨城県産の白い肌身の稲田石を使用しています。参拝場の西端は中国産のままですが、周囲より磨かれ清らかなのは、彼方にある皇居そして西方浄土への敬意です。参拝空間は、まさしく将門塚の中心であり、この石畳上で、入口から千鳥岩までの縦軸(南北)と墓石揃えから皇居へ向かう横軸(東西)が交わっています。

 将門塚の中心である参拝空間から周囲を見渡すと三方(東、北、西)を囲む校倉造りを模した岐阜県桧材の木塀が見えます。校倉造りは伝統的に神社仏閣において宝物や経典を納める倉庫の建築様式ですが、将門塚では敷地全体を大切に守り継ぐ願いを込めています。決定的に校倉造りと異なるのは、井桁に組まれた木材の間が透けており、敷地の外が見えることです。風が通り視線が抜けることで、以前より敷地と周辺の結びつきを目に見える確かなものとし、将門公の御加護が地域に東京に広がっていくことを願っています。同時に意匠的にも密度の高い木塀で囲むことで、目線が常に低層部に留まるので、超高層ビルの存在に目が行きにくく、逆にその高さが壮大な背景へと変化するようにしています。木塀の高さは前述したように最高高さ2m以内ですが、場所により段階的に変化させており、木塀と人の距離が最も近くなるスロープ付近が一番低く、参拝所から皇居方面を望む西側では視界が抜けるように胸の高さ以下とし、板石塔婆のある墓前揃えの後ろを背景として一番高くなるようにしています。周囲を眺めてもらえば、まるで山並みのように見えてくるかもしれません。新しい将門塚には見立てとしての海原と山々をつくり、自然の縮図を実現したかったのです。

 全ての木塀の上には笠木があり、実用として雨を凌ぐとともに、木塀と背後の高層ビルとの視覚的な縁切りの役目も果たしています。笠木は二段構成で、濃い瓦色の金属板の下にはむくりを付けた金色に輝く金属板があり、いずれ時が経ち木塀が灰色に変わったとしても、濃い瓦色と灰色の間で変わらぬ輝きを放ち、かすかに山並みの輪郭を添えているはずです。

 高さの変わる木塀において、千鳥岩と墓前揃えの背後、桧材の間に鏡仕上げをしたステンレス棒が幾つも見えるはずです。全体では山のような台形の形をしていますが、神棚におけるご神鏡の見立てであり、この重要な2箇所では参拝者の視線と将門公を敬愛する気持ちが通りすぎず、敷地内に留まるようにしています。全ての桧材は見た目の印象を和らげ、しっかりとした水平線が経年変化をしても残るように角を丸く削っています。

 桧材の端部(木口面)に加え、木塀の西面では皇居を望む左右、北面では千鳥岩の左右、東面では墓前揃えの左右に九曜紋の入った餝硝子(かざりがらす)が付いています。伝統的な建築の餝金物と同様に木材の端部や交差部を保護する意味合いもありますが、それよりも大きな役割は革新と伝統の両面が融和している場所であることを明示することです。大手町という日本の商業活動の中心にあり、皇居にも近く1000年以上の歴史がある場所に、硝子という現代的な素材のもつ透明感に彫刻のような量感と家系の系譜を象徴する九曜紋を与えることで、将門塚にしかない特異な場所性を浮かび上がらせています。この役割は後述する夜景時において最も明らかになります。

 しっかりと水平線のそろった木塀を支えているのは、その背後にある円形の石柱と精緻な金属金物です。石柱は敷地境界線の外に将門塚の土地を残さぬように、基礎や構造に特別な工夫を施し、間際まで建てられています。石柱の両翼に広がるゆるやかな曲線はカテナリー曲線といい、水平に張った糸が自重で自然にたわんだ際にできる重力が描く線のことで、内部にある補強材を隠しています。さらに石柱の足元にあり砕石の海と交わる面はサイクロイド曲線で構成されています。これは長方形において上部頂点から下部頂点へと対角線よりも早く移動が可能な曲面なので、ある意味最も動きを実感する曲面ともいえます。不揃いの砕石の海辺が皇居からやってくる風であたかも揺れているように見せたかったのです。

 日本の伝統的建築には保全や改修の必要な箇所に手を加え、古さを残し新しさを加えながら未来に継承していく技があります。この木塀でそれを可能としているのは、取り替えを前提に考え抜かれた精緻な金属金物です。笠木も、餝硝子も、木塀を構成する桧材も全て手順を踏めば、必要なメンテナンスと取り替えが可能になっています。全ての細部において前例のない試みがあり時間が掛かりましたが、将来、大規模な改修が必要になった時に役に立つはずです。個人的には次の取り替え時には、崇敬者のお名前を彫り込んだ奉納された桧材を使うことが、庶民に慕われた将門公らしくて良いな、と思っています。

 敷地内にある植栽は全て在来種ですが、以前のように植えた時はよくとも、成長しすぎて手に負えなくなることがないように範囲を限定しています。入口階段を上がった右手にある二代目のクロガネモチは、ゆっくりと成長する木ですが、いずれはこの周辺のどの木よりも真っ直ぐに大きくなるはずです。歩道から墓前揃えが丸見えになることを少し隠し、将門公の左脇腹を守るような役割があると思っています。砕石の海の四隅に植えられている株立ちのヒメシャラは、手前と奥で高さが異なりますが、木塀のさらに内側にある石材で出来た灰色の世界において緑のアクセントをそえ、境界を明示する役割があります。シダなどの下草類は、視界の片隅で山門の風情を演出し、墓前揃えの後ろで木塀奥の緑へと視界を繋げていく役割をしています。将門塚には以前より緑が少なくなりましたが、それは敷地内の話であり、以前より多くの植栽を敷地周辺に配置しています。これは隣地の話ですが、これからの将門塚のあり方を関係者と協議し、敷地の中に緑は少なくとも周囲が緑に囲まれ、西側では皇居に繋がる緑の森が広がり、東側では墓前揃えの背面に計画にはなかった高木を配置することで、超高層ビルの印象が気にならないようにしています。

5 新しい時代に相応しい場

  • ・東京の中心・大手町で祈りを捧げる
  • ・より多くの人が訪れる新しい祈りの空間

>大手町の交差点から樹々が連なる歩道を皇居に向けて歩き、両脇に大きな石組みのある石段を見つければ、そこが新しい将門塚です。入口ではまるで屏風のように平面的な絵に見える景色も、石段を七つ上がれば、一気に立体的な世界が見えてくるはずです。周囲を眺め、石畳でひと呼吸つき、気持ちが静かになったら太鼓橋へと踏み出してください。正面にある千鳥岩に惹かれるように参拝所へと踏み入れると、まるで天から糸で引っ張られるたかのように背筋が伸びるはずです。周辺を砕石に囲まれたその場所は、将門塚の中心であり、祈りを捧げる特別な空間です。将門公への参拝が終われば、後ろを振り返ってみてください。石畳から木塀へと続く先に、隣地の緑が連なって延びており、その一番奥に見えるのが皇居の森です。ここへ来るまでは少し緊張していた心も、落ち着き、背筋が伸び、清らかになり、最後に永遠に続くような景色を目にすれば、きっと清々しく生まれ変わったように感じることと思います。

 旧将門塚のころから、ここは絶え間なく参拝者が来られる場所でした。以前は東京・大手町という最も都市的な環境において極めて異質な空間でしたが、今は過去の面影は全くありません。しかし、皇居に近く、歴史があり、最も都市的なこの場所において、日本の文化や歴史を感じる様々な仕掛けを施し、自然素材と人の力を尊重した、何より関係者が一丸となり将門公のために成し遂げたこの場所に、ここに降り注ぐようになった太陽光よりも、新旧多くの参拝者が来られることを願ってやみません。伝統と革新の間には常に緊張感が横たわっています。伝統はえてして解釈が難解で扱いづらいのですが、現代的な解釈を与え活かしていくことで、新しく出来たものは伝統の豊かさに支えられ、未来へと次の世代へと引き継いでもらえるのだと信じています。

6 西陽と夜景

  • ・皇居からそよぐ風と差し込む西陽
  • ・浮かび上がる九曜紋

>礼拝後に振り返ると、昼間は眼前に鮮やかな緑が続き皇居の森が望めますが、午後も遅くなると爽やかな風がそよぎ始め、少しずつ西陽が差し込んできます。皇居から差し込む西陽で黄金色に照らし出される将門塚の姿は、ここが都市にあるのではなく偉大な自然の一部であることを感じさせてくれます。

 日が沈み夜を迎える時間帯は、将門塚で最も印象的な時間かもしれません。日没と共に昼間はみずみずしい透明感を携えていた木塀の餝硝子に灯がともります。夕闇の中、餝硝子に浮かび上がる九曜紋は具体的に何かを照らすのではなく、歴史ある参拝空間の境界を明示し、見えずとも存在する清らかな空気を、空間を指し示しています。以前なら参拝は昼間だけだったと思いますが、これからは昼の太陽光に満ちた将門塚も、夜の月明かりと九曜紋に照らし出された将門塚もぜひ参拝してみてください。入口の石段両脇にも餝硝子があるので夜はよい目印になるはずです。

7 100年先へ

  • ・生みの親と育ての親
  • ・いずれは鎮守の森へ、まずは2024年の神田祭へ

>新しい将門塚を実現するために、第六次将門塚改修計画に関わった数多くの関係者は、各々の立場でできる最大限の務めを果たしました。これからも保守管理面で関わっていくことと思いますが、この新しい将門塚を以前と変わらず愛し、より深く大きく見守って下さるのは参拝者の皆さまです。時代に振り回された変遷の歴史が、6度目の改修工事となり、1082回忌となる2021年に静寂を取り戻し、次の、その次の世代へとこれからも愛され続けることを願っています。

 まだ初々しく新しさが目につきますが、早く木塀の色が落ち着き、敷地内外の緑が青々と生命力に満ち、鎮守の森のような風景になることを心待ちにしています。まずは2年後の神田祭りでは再び多くの人が集える社会に戻り、将門塚が参拝者で溢れかえっていることを願ってやみません。(了)