将門塚保存会

保存会について

将門塚保存会は将門公を顕彰し、公の神霊を慰め奉り、且つ将門首塚の保存を目的とする会です。

保存会の事業

  • (1)管理事業 平常の清掃管理及び祭祀
  • (2)復旧事業 境内諸施設の復旧整備
  • (3)祭典事業 毎年一回慰霊大祭の執行
  • (4)宣伝事業 将門会顕彰及び将門塚関連文書の収集及び出版
  • (5)史蹟指定事業 国及び都に対し史蹟指定の運動を行う

史蹟 将門塚保存会々則

  • 第一条
    本会は史蹟将門塚保存会と称する
  • 第二条
    本会の事務局は千代田区外神田二ノ十六ノ二 神田神社々務所内に置く
  • 第三条
    本会は千代田区大手町一ノ一ノ一所在、将門塚の保存管理及び、将門霊神の慰霊祭祀を行うことを目的とする
  • 第四条
    本会は前条の目的を達成するため次の事業を行う
    • 一、将門塚(平将門公首塚)の保存及管理
    • 二、将門霊神の慰霊祭の執行(毎年九月 塚前祭・例祭)
    • 三、平将門公に関する歴史研究とその顕彰
  • 第五条
    本会に役員として会長一名、顧問・相談役・参与若干名を置く
  • 第六条
    本会の経費は会費及び初穂料をもって充つ
  • 第七条
    本会の会計年度は毎年九月一日に始まり八月三十一日に終わる
  • 第八条
    本会の総会は毎年九月例祭の日に会長が招集する

史蹟 将門塚保存会 役員名簿

会長 平野 徳子(株式会社神田木材代表取締役)
顧問 清水 祥彦(神田神社宮司)
関口 勇一(時宗神田山日輪寺住職)
参与法人 三菱地所株式会社
三井物産株式会社
大樹生命保険株式会社
三井物産フォーサイト株式会社
株式会社三菱東京UFJ銀行
株式会社竹中工務店
丸紅株式会社
株式会社パレスホテル
三井不動産株式会社
新日本空調株式会社
(敬称略)

将門塚保存会 歴史と成り立ち

神田山日輪寺

例年二月十四日は、平新皇将門公の祥月命日である。公縁故の人々は、この日に参集して、今もその菩提を弔うことをつづけている。
東京都台東区浅草柴崎町(国際劇場の裏通り)の神田山日輪寺も、その一つである。
日輪寺は往古、現在の千代田区大手町に在って柴崎道場と称し、将門公の位牌を奉安して、境内に板石塔婆を立てている。

日輪寺は、はじめ天台宗の寺であったが、喜元(一三〇三)の年、時宗二世、他阿真教上人が遊行中、たまたま通りかかったとき、将門塚が荒れ果てて疫病が蔓延し、住民が難渋して、将門公の祟りであると恐れおののいていたので、上人は将門公に「蓮阿弥陀仏」の法号を追贈して、丁重に塚を修復して供養したところ、さしもの疫病も終息したという。 住民は大いに喜び、上人に日輪寺に留まってもらい、以後、宗を改め時宗の念仏道場となったといわれる。

日輪寺檀徒の将門公に対する慰霊の行事は、天正十八年(一五九〇)徳川家康が江戸に打入り、築城にとりかかった際、寺が芝崎村とともに浅草に移転させられたのちも蜓々として今日に至っている。
本年二月十四日にも、第四十三世住職原弘道師によって壱千参拾参回忌の法要が、多数の将門公追慕者を集めて盛大に執り行われ、公を顕彰する法話があった。

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将門首塚の管理

さて、将門首塚の管理は、喜元以降元和の頃まで、主として日輪寺が当ってきたものと思われるが、この日輪寺の記録によると、真教上人は延慶二年(一三〇九)塚の傍にある安房神社(州の崎神社)の分社が、これまた荒れ果てているのを悲しんで、社殿を修復し、将門公の霊を相殿にお祀りして、神田明神と改称し、国家鎮護の社としたとある。 しかし、神田明神が独立した神社として世の中に有名になったのは江戸幕府が開かれ、元和二年(一六一六)二代将軍徳川秀忠が、久永源兵衛重勝を奉行として湯島台に壮麗な社殿を造営し、江戸の総鎮守として江戸第一の社格を与え、将門公の後裔という、柴崎氏を神主に人名して祭祀を司らせるようになった時にはじまるといえる。 このとき日輪寺も神田明神も、将門塚を離れてしまい、塚は土井大炊頭の屋敷の内になり、以後江戸時代三百年間、この地に屋敷を賜った大名の管理をするところとなった。

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神田祭

毎年九月十五日に行われる神田祭は年を追って盛大になり、天下祭り、日本三大祭りの一つとして世に喧伝されるようになった。
そして、その神田祭の当日は、まず浅草日輪寺の住職が参拝して、神輿(将門霊神の神霊)はかつぎ出され、巡幸の途次、必ず大手町の将門塚に至り、塚前にすえられて、奉幣の義が行われた。このことは神輿、山車が江戸城内に入らなくなった明治維新後も同様で、さらに終戦後、今日に至るも変わっていない、本年(昭和四十七年)五月五日(交通事情のため繰上げ実施)の神田祭に当っても旧慣通り施行されることになっている。

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敗戦後

明治維新後の将門塚の管理は大蔵省大臣官房によって行われていた。 これは場所が大蔵省の構内になったからであるが、御一新の動乱の中で、朝敵平新皇の首塚が保存されたのは故渋沢栄一翁の尽力によると伝えられている。
昭和年代に入り、中央官庁は霞ヶ関方面に移ることになって、大蔵省、内務省の跡地は、東京都の本庁省の建設用地に充てられることに予定されたが、第二次大戦の末期、空襲によって、ついに一望の焦土と化してしまった。
そして、敗戦の結果、この地は米進駐軍の一大モータープールになる運命になったのである。
神田橋から大手町に向かって歩くと右側に三井生命保険相互会社と日本長期信用銀行のビルがある。この二つのビルからその裏手の三井物産本社ビル工事場の一帯が、旧大蔵省の跡地であって、終戦直後は一望の焦土となっていた。
日本長期信用銀行の横の道路は、その当時は無く、三和銀行東京支店の工事場と東京産業会館、日本鋼管ビルの一角は、これも裏の丸の内消防署までを含め旧内務省の跡地で、江戸城の大手門前である。

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将門首塚

むかしは「竜の口」と呼ばれ、ここから日本橋へ向かって呉服橋と一石橋の間を抜ける堀割が江戸で一番早く掘られた道三堀であったが、すでに埋め立てられて、いまは無い。
この広大な焼け跡も、米軍の持参したブルドーザーの前には忽ちのうちに片付けられていった。
ところが、そのとき突然ブルドーザーが横転し、運転手は投げ出されて打ちどころが悪かったのか、病院に運ばれたがまもなく死亡した。
それまでもいろいろ事故があって、日本人の労務者に怪我人がでていたので不思議に思い、そのあたりを調査した。
すると、転覆したブルドーザーの前に何か半分埋まっているが”墓”のようなものがあるので大騒ぎとなり、いろいろ通行人に尋ねてみたがわからない。
もっとも、当時は現在と異なって自動車も米軍ジープやトラックが、わずかに走っている程度で、ろくに人通りもなかった。

そこで、わずかに焼け残った民家が神田橋の外の鎌倉河岸にあったので訪ねあてたのが、当時の町内会長故遠藤政蔵翁であった。
早々現場につれて行かれてみたところ建物も樹木も全部焼け失せているが、それは紛れもない、将門塚の「しるし」であった。
この「しるし」というのは板石塔婆のことで、高さは台座より約一メートル、本小松石を磨いて表面に”南無阿弥陀仏”と刻んであり、昭和十五年の将門公壱千年祭に大蔵省が、真教上人の板碑を模刻したものである。
それと昔時、将門首洗の池と呼ばれた大蓮池の石燈籠と故跡保存碑がみつかった。いずれもすでに倒れていたが、「しるし」はいささかの損傷もなく、焦土の中から半分ほど頭を出していた。幸い遠藤翁は土地の古老で将門塚のことをよく知っていたので、工事の人達に、これは将門首塚といって祟(たたり)のあるところだから手をふれないほうがよいと説明した。

そこで、その翌日から遠藤翁の活動がはじまった。
町内会の英語のできる人をつれてマッカーサー司令部に出頭した。関係者を訪ねて陳情し将門塚の取り毀しをとりやめてもらうためである。日参の効があって漸く将門塚は残された。

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大酋長の墓

遠藤翁は近衛兵として日露戦争にも出征したことのある人であったが、のちにその当時のことを聞かれると、当時マッカーサー司令部に交渉に行くことは、命がけのようなもので怖ろしかったが、通訳を通じて向うの軍人に説明したとき、とっさに「昔の大酋長の墓」であるといったら、すぐわかったらしいといって笑っていた。 ただちに焼け土を取り除き、竹囲をつくって応急措置をほどこし、僅かながら将門塚の保存に成功した。

以来毎月、一日、十五日には清掃し、生花を献じ、将門公の御霊を慰めた。
もしそのとき、ブルドーザーの運転手に事故がなかったら、また遠藤翁を訪ねることがなかったら、将門塚は人の知らぬままに消滅してしまったであろう。
霊異いまだ衰えずということができる。

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保存会の結成

結成

戦後の将門塚保存事業は、実にこのときにはじまるが、それから十五年後の昭和三十五年七月、正式に「史蹟将門塚保存会」が結成された。
このように民間の団体もできて保存に当たるようになったのは、将門塚の歴史がはじまって以来のことである。
それには大きな二つの理由があった。

一つは敗戦の結果、憲法が改正され官庁は将門塚のような宗教的なものに管理費や祭祀料を支出することができなくなったこと。
もう一つは、東京都がこの土地に本庁舎を建てることを断念して、すでに鍛冶橋に建築がはじまり、米軍のモータープールもようやく廃止され、跡地が三井生命、日本長期信用銀行等に分割払下げられ、ビルの建築がはじまったことである。

初代会長には、神田明神氏子総代である、三信船舶電具株式会社社長山田寿二翁が、副会長には、大手町・丸の内地区を代表して、三菱地所株式会社社長渡辺武次郎氏が、また内神田各町を代表して神田明神氏子総代である筆者(遠藤達蔵)が、顧問には神田明神大鳥居宮司、将門研究家で農林大臣赤城宗徳氏、千代田区長遠山景光氏等が就任した。 当初の会員は約五十名程度であった。

会の目的および事業として挙げられた綱目は次の通りである。
目的
将門公を顕彰し、公の神霊を慰め奉り、且つ将門首塚を保存する。

  • (1)管理事業 平常の清掃監理及び祭祀
  • (2)復旧事業 境内諸施設の復旧整備
  • (3)祭典事業 毎年一回慰霊大祭の執行
  • (4)宣伝事業 将門会顕彰及び将門塚関連文書の収集及び出版
  • (5)史蹟指定事業 国及び都に対し史蹟指定の運動を行う

そして会は、ただちにこれらの事業に着手した。

幸い日本長期信用銀行より、第一回整備修復工事費用の奉献があり、整地、植樹、玉垣を設け、かつ由来書標示看板および標識柱を設置した。
なお、このとき、旧来、塚の入り口は東向きであったものを西向に改め、仮参道を北側の東京国税局徴収部内に設けた。
そして昭和三十六年十二月に竣工奉告を兼ねた慰霊祭が、神田明神の大鳥居宮司、石橋権宮司、今永禰宜ほか全神職の奉仕により盛大に施行され、浦安の舞が、参列者の心を千古の昔に還したのである。

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将門公の首級

天慶三年二月、戦に敗れた将門公の首級は京都に運ばれ獄門にかけられたが、「一夜白光を放って東方に飛び去り、武蔵国豊島郡柴崎に落ちた。その音は物凄く、関八州にとどろき、三日三晩大地は鳴動した。
人々は恐れおののいて首級を近くの井戸で洗い、平川観音堂に供養し、塚を築いてねんごろに葬り、手厚くその冥福を祈ったところ漸くその祟が鎮まった」という。
このときの将門塚は丁度、江戸湾の波がひたひたと打ちよせる海浜であったという。
いまビルに囲まれた、あたりの様子は、まことに今昔の感にたえない。

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将門公慰霊祭

その後、昭和四十年、さらに西北部の土地が三井物産株式会社に売却され、国税局も神田橋際の新庁舎ビルの落成により移転し、北参道が閉鎖されることとなったため、参道入り口を南に変更する工事を計画し、再び日本長期信用銀行の寄附により、参入口石垣、石段、造園および造塀工事を行い、翌四十一年一月完成した。
なお、同年五月、保存会初代会長として会の事業を発展させた山田寿二翁が逝去され、後任に副会長である渡辺武次郎氏が就任された。
渡辺翁は、丸の内・大手町の大地主三菱地所株式会社の社長(現会長)で将門公の事蹟については、常に深い理解をもたれており、以来、渡辺会長のもとに保存会の事業も順調に行われている。
このときから、将門公慰霊祭を、将門塚例大祭と呼ぶこととし、毎年秋の彼岸の一日を選び塚前において盛大に施行する慣例となった。
この日、塚城には五彩の幕を張り巡らし、土壇の四辺に竹を立てしめ縄を廻し、祭壇を設けて、神酒をはじめ山海の幸を献じ、神田明神大鳥居宮司が祝詞を奉上する。
参列するもの百数十名、祭式終了後、日本長期信用銀行講堂で直会を催す。
このとき、神田講武所芸妓蓮により、常磐津「将門」が演じられ、将門の息女滝夜叉姫と大宅太郎光国のやりとりに、しばし耳を傾けることになる。

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東京都文化財の指定

昭和四十六年四月一日、東京都より将門塚保存会に対し次の文書が発せられた。

46教社文発第九号
東京都教育委員会
委員長 野尻高経

東京都文化財の指定について(通知)
貴管下の別紙文化財は、東京都文化財保護条例第三条第一項の規定により、昭和四十六年三月二十九日付をもって東京都文化財に指定しましたのでお知らせします。
なお、この指定については、三月二十九日付東京都教育委員会告示第九号で東京都広報に告示します。

このようにして、将門首塚は都条例により文化財(都旧跡)に指定された。
現在、史蹟将門塚保存会の会員は約二百名である。

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※故前将門塚保存会会長 遠藤達蔵氏文献より抜粋