天平2年 730 | 庚午 | 〇 | 神田明神、武蔵国豊島郡芝崎村(現千代田区大手町の将門塚、一説に韓田)に創建。(書類・略年表) |
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貞観5年 863 | 癸未 | 関連事項 5月20日神泉苑で御霊会を行い、祟道天皇・伊予新王・藤原吉子・藤原仲成・橘逸勢・文室宮田麻呂の霊を祭る。 | |
延喜3年 903 | 癸亥 | 〇 | 平将門公、誕生(一説)。(国宝将門記伝) 関連事項 2月25日菅原道真公、没(59)。 |
延長9年 931 | 辛卯 | 〇 | 将門公、女論により叔父平良兼と対立(一説)。(将門略記)また、将門公、亡父良持の遺領のことにより良兼と戦うとも。(今昔物語集) |
承平5年 935 | 乙未 | 2月2日 | 将門公、常陸の野本付近で源扶などに要撃される。(記) |
2月4日 | 将門公、源護の本拠を襲ってこれを焼く。源護の子扶・隆・繁ら討たれ、叔父国香も焼死する。(記) | ||
〇 | 国香の子貞盛、変を聞き急ぎ京より帰国するも、将門公との争いを避ける。(記) | ||
10月21日 | 叔父良正、源氏との因縁により兵を集め将門公を攻める。将門公、新治郡川曲村においてこれを破る。(記) | ||
承平6年 936 | 丙申 | 6月27日 | 良兼、水守で良正・貞盛と合流し、下野国境で将門公と対戦。将門公これを撃破し、下野国府に追い詰めるも囲みを解いて良兼を遁れさせる。(記) |
10月17日 | 将門公、召喚の官符びより急遽上洛し検非違使庁において裁かれる。(記) | ||
承平7年 937 | 丁酉 | 4月7日 | 将門公、朱雀天皇元服の恩赦により罪を許される。(記) |
8月6日 | 良兼、兵を発し常陸・下総の境子飼の渡しに将門公を攻める。将門公敗退し良兼ら豊田郡栗栖院常羽の御厩を焼く。(記) | ||
9月23日 | 将門公、弓袋山に良兼を攻めるも勝敗決せず(一説)。(記) | ||
12月14日 | 良兼、将門公の駈使丈部子春丸を買収して石井の営所の内情を探らせ夜討をかける。将門、奮戦してこれを退ける。(記) | ||
天慶元年 938 | 戊戌 | 2月29日 | 貞盛、山道よりひそかに上洛を企てる。将門公、これを信濃国小県群の国分寺付近に追撃する。貞盛、辛うじて遁れ上京して将門公の非行を訴える。(記) |
2月 | 武蔵国庁において、権主興世王・介源経基と足立郡司武蔵武芝が対立する(一説)。(記) 関連事項 5月22日地震や兵革の慎みにより天慶と改元。(貞信公記抄・日本紀略) |
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天慶2年 939 | 己亥 | 2月12日 | 太政大臣藤原忠平、貞盛の訴えにより将門公を召喚しようとする。(記・貞信) |
3月3日 | 将門公、武蔵国庁の紛争調停のため出兵する。興世王と武芝を和解させるが、径基これを疑い上洛して将門公ら謀叛の由を朝廷に密告する。このため政府は、四、九、二十二日に伊勢神宮をはじめ諸社・社寺に祈祷し奉幣する。(将門記・貞信公記抄) | ||
4月17日 | 出羽国から俘因の反乱のことが奏上される。(貞信・本朝世紀) | ||
5月2日 | 将門公、常陸など五ヶ国の解文を添えて謀叛無実の由を忠平に言上する。(記) | ||
5月 | 諸国の善状により将門公のため功課あるべき由、宮中に議せられる。(記) | ||
6月21日 | 変乱のト占があり、東海・東山などの諸国で神仏に祈らせる。また同日、相模・武蔵・上野などに群盗追補の官符が下る。(貞信・紀略・本朝世紀) | ||
6月 | 良兼、病床に臥し剃髪して卒去する。(記) | ||
6月 | 貞盛、将門公追補の官符を得て帰国するも将門公の勢威強く沈吟する(一説)(記) | ||
6月 | 興世王、新司百済貞連と和せず出奔して下総国に寄宿する。(記) | ||
6月 | 常陸国の住人藤原玄明、濫悪を事として長官藤原維幾の制止を聞かず。将門公これを庇護し維幾と対立 | ||
7月5日 | 京都朝廷、権律師義海に東国の兵乱を平定するための修法をさせる。(貞信) | ||
11月21日 | 将門公、玄明の追補令の撤回を求めて常陸国府に出兵。交戦してこれを焼き長官維幾らを捕らえ、印鎰を奪う。(記・紀略) | ||
12月11日 | 将門公、下野国府を襲って印鎰を奪い長官藤原弘雅らを官堵に追う。(記) | ||
12月15日 | 将門公、上野国府を攻略し印鎰を奪い長官藤原弘雅らを追放する。(記) | ||
12月19日 | 一巫女、八幡大菩薩の使と称して将門公を皇位に即けんと告げる。将門公、新皇と自称する。(記) | ||
12月26日 | 藤原純友の士卒、摂津国において藤原子高らをおそう。(貞信・紀略) | ||
12月29日 | 将門公謀叛の報が入り、また純友の事件もあって殿上で対策が検討される。(貞信・紀略・本朝世紀) | ||
12月 | 将門公、書を私君忠平に送り心緒を陳べる。(記) | ||
12月 | 将門公の弟将平・内堅伊和員経ら、将門公を諌止するも将門公これを聞かず。(記) | ||
12月 | 将門公、除目をおこない東国の国司を任命しついで王城建設の議を発する。(記) | ||
12月 | 将門公、武蔵・相模を巡検し印鎰を領掌する。また天位に預るの書状を朝廷に送る。(記) | ||
天慶3年 940 | 庚子 | 1月3日 | 七段修法が始められる・同日、宮城の四方の諸門に矢倉を構築する。(貞信・吾妻鏡) |
1月6日 | 東西の兵乱により吾畿七道の諸神に各位一階を授けて祈念する。(貞信・師守記・鴨脚秀文文書) | ||
1月7日 | 東西兵乱を祈申させるため、伊勢神宮に使者を遣わしたが触穢により幣物奉らず。21日に改めて幣帛使を派遣する。(貞信・紀略・小右記・大神宮諸雑時記) |
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1月 | 将門公、吉田郡蒜間の江の辺において貞盛・源扶の妻を捕える。将門、これを本土に放免する。(記) 将門公、軍を解き諸国の兵を帰休させる。のこるところの手兵千人にたらず。 貞盛、このことを聞き下野押領使藤原秀郷と四千余の兵を率い将門を攻めようとする。(記) |
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2月1日 | 将門公、貞盛らの軍勢を防ぐため下野に出兵するが副将藤原玄茂らの軽拳により敗北する。秀郷らこれを川口村に追撃する。 将門公、奮戦するも及ばずして敗退し幸島郡の弘江に遁れる。(記) |
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2月13日 | 貞盛・秀郷ら、兵を倍にして下総の境に進出、将門公の舎宅を焼く。(記) | ||
2月14日 | 平将門公、北山に陣して平貞盛の軍と交戦。激戦ののち神鏑に射られ戦死する。(記) | ||
2月 | 将門公の兄将頼および玄茂ら、相模国において殺害される。興世王、上総国において誅殺される。 坂上遂高・藤原玄明ら、みな常陸国において斬られる。(記) |
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4月25日 | 将門公の御首、藤原秀郷により京都に届けられ東市に梟首(フリガナ:)。その後、将門公の首、所縁の者たちにより神田明神の傍に埋葬される。(備考・記・貞信・師守記) |
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6月 | 将門公、中有之使により冥界の消息を伝えるとの巷説が流布する。(記) | ||
6月 | 『将門記』成立(一説)。(記・将門記考) | ||
天慶4年 941 | 辛丑 | 6月20日 | 藤原純友、橘遠保により射殺される。(師守記) |
天徳4年 960 | 10月2日 | 関連事項 10月2日将門公の男入京の噂があり検非違使と満仲らが警固。 | |
天禄3年 972 | 壬申 | 2月14日 | 関連事項 2月14日将門公の娘・如蔵尼により国王神社(茨城県岩井市)創建。 |
承徳3年 1099 | 己卯 | 1月25日 | 関連事項 1月25日『将門記』真福寺宝生院において書写(真福寺本・大須本)。 |
建久3年 1192 | 壬子 | 7月12日 | 関連事項 7月12日源頼朝、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府開府。 |
徳治2年 1307 | 丁未 | 〇 | 真教上人、将門公の霊を化導し蓮阿弥陀仏の法号を授け板碑を建立する。この時、将門公の墳墓の傍らに芝崎道場日輪寺開基。(故蹟考・時衆年表) |
延慶2年 1309 | 己酉 | 〇 | 真教上人、将門公の御霊を日輪寺の傍らにある神田明神に合祀。(略年表) |